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2006/11/01

11/1:履修漏れ問題の本質

◆横浜・東京:はれ

 昨晩は、22時半に就寝して、熟睡。ニッカン一面は、「獅童結子離婚」。今ごろ気づいても遅いよ!って、まぁ、小生に言う資格はまったくないですけどね。
 
 今日もまだまだ眠いけれど、多少復活してきたので、履修漏れ問題について。小生、私立の内部進学なので、教育問題を論じるには、立場が偏っているのだけれど、結局、この問題は、日頃から指摘している、「守れないのが当たり前のルールを作って、黙認しておきながら、ある時、突然取り締まるのはおかしい」というところにも行き着く。
 フェアということを重視する小生だが、「他の学校の生徒は、その授業を受けていたのだから、補習を受けてもらわないと不公平」という議論には、全面的には賛成できない。その分、早く帰って予備校に行っていたわけではないし、そもそも生徒たちが、リスク覚悟でその学校を選んだのだから自己責任とは言い切れないだろう。
 当面の解決は、まぁこういうときは、役人では無理で、政治家の出番であり、補習を短縮して行うというのがまぁ落としどころになるのだろう。今回、わかったのは、伊吹文相というのが、全然ダメだということと、めずらしく森喜朗ががむばっていたということ。教育に一家言あるというだけのことはあるようだ。だてにラグビーばかりやっていたわけではないということなのだろう。(「一過言」と書いて、不安になって、ネットで検索したら、「一家言」で、しかも、「いっかげん」なんですね。。。)
 しかしながら、今回の議論をみていて、解せないのは、授業とか単位とかいうもののあり方についての突っ込んだ議論が全然されていないことである。名前だけ「日本史」とつけた授業を50時間やればいいのであれば、時間割に、「日本史」とつけておいて、自習の時間にしてしまえば、履修漏れも回避され、受験生にとっては、困らないことになる。実際、小生の高校なんて、巨人の話しかしない英語の先生、映画の話をふると止まらなくなる国語の先生、学校の歴史だけで1学期が終わる日本史の先生もいたし、中学も高校も歴史の授業というのは、時間切れで16世紀くらいで3学期が終わるのが毎年のことであった。
 指導要領は何のためか?一定の水準の知識の習得を求めているのであれば、科目の名前ではなくて、中身が問われるはずだが、全国すべての授業の中身なんか管理できるわけもない。テストをやる方がまだ現実的であるが、それならば、履修時間なんか意味はなくて、点がとれればよいことになる。それに高校は義務教育ではないのだし、もう制度そのものを根本的に見直さないとどうにもならないだろう。
 ついでに言えば、大学の方も、受験問題で、日本史とか世界史の細かいことなんか問わないで、「今回の履修漏れ問題について思うところを述べよ」と1問だけ出題すれば、それでだいたいすべてわかるはずである。
 バブル後の10年くらいで、日本人の価値観も変わってきて、少しずつ住みやすい国になりつつあると思うところもあるのだけれど、その過程では、耐震偽装問題、履修漏れ問題、少し違うが、ホリエモン問題にしても、奈良かどっかの職員の病欠問題にしても、戦後何十年か目をつむってきた問題の膿がまだまだこれから出てくるのだろう。

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